第48話   酒田の車竿その2         平成29年4月29日

鶴岡の釣り人は、磯一辺倒の黒鯛釣りで武士の釣の伝統を重んずる者が多かった。一方酒田の釣り人は、防波堤の釣で黒鯛のみならず鱸、ボラから根魚となんでも釣る。港町で進取性に富むことで根が新し物好きであった事で、釣るための道具だったら何でも取り入れる性癖がある。武士の釣と商人の釣の違いをまざまざと知らされる。とは云っても最近の鶴岡の若者の釣は、武士の釣の伝統に精を出す人は残念ながら殆どいない。これも時代の流れとしか受け止める事が出来ない。
 本間祐介氏の遺書みちのく豆本「無為庵覚書」によれば大正の末期頃本間祐介、中山賢士、鳥海吉郎の三氏が、当時珍しかった北海道でイトウを釣る為の大型横転リールを持っていた。これで鱸を釣れば、必ず釣れ過ぎて乱獲につながると使用禁止することにしていた。静かに釣を愉しもうとする玄人(くろうと=釣の上手な人の意、酒田の釣界では昔から尊敬の念を入れた呼称)達の釣りの邪魔をしてはならないと考えたからでもあった。
 ただ貪欲に魚を釣れれば良いと考えるだけの素人(玄人の反対語)釣師が多くが延べ竿に旗竿みたいな太い竹を継ぎ足してより遠くのスズキを狙うようになっで行った。多くの素人衆が下手くそな技術で、ただやみくもに長竿を振り回すに至り危険な釣になってしまった。こんな事なら本間祐介氏等は、車竿を使った方がまだましと考えるようになったと云う。
 酒田の車竿の終焉は、庄内竿の竹の中通し竿より早く昭和378年の頃にかけてであった。その原因は中身の詰まった重い二間半から三間のグラスの投げ竿とオリンピックの93型などの大型スピニングリールの急速な普及にあった。その23年後には、現在と同じような形のグラスの軽い振り出しの投げ竿が、売りだされるようになり決定的となる。
 車竿に付けられた横転リールの使い方を紹介したい。横転リールはとても扱い憎い五間(9m)以上の長竿の代わりに使われていた時代には、とても優れた武器であった。釣り場について、三本継の竿を螺旋パイプにかっちりとねじこんでリールシートに大型の横転リールを縦に装填する。スピニングリールと異なりギア比は11である。道糸を元竿のガイドからトップガイドまで次々に通していく。トップガイドから出た道糸に酒田ウキをぶら下げる。次にその下に23尋にオモリ12()くらいを付ける。さらにその下に一尋のハリス、セイゴ針5〜8号をつける。ブッコミ竿として使用する場合は、ウキの代わりにナツメ型の重りを付け、その下にヨリモドシ、その下にハリスを付けた。
 次に投げ込み方である。横転リールを、トップに向けて横にする。リールの直ぐ前で道糸に人差し指を軽く掛ける。トップガイドから少し道糸を垂らし、酒田ウキの重さを利用して仕掛けを絡まぬようにぶら下げる。そして前方に思いきり振り込む。竿が45度くらいになった時に人差し指を道糸から離す。基本的には、現在のスピニングリールの釣の要領と同じである。ただ道糸を放すタイミングが慣れないとパーマする事がしばしば起こる。現在のスピニングリール以上に、そんな事がおきる。これが、横転リールの使用上の最大の欠点であった。


(注)昭和13年ごろの南突堤の釣風景。写真の右側の白いYシャツの釣り人が横転リールを巻き上げている。又右から三人目の釣り人の手元に白く光っているのが横転リールである。